みんな今日も地獄を生きよう

妻、息子、猫3匹と暮らすブラック企業戦闘員の提供でお送りします

不幸の連鎖

帰宅、23時。こんなもの名ばかりブラック企業で、東京だとこんなのまだましなのだろうと思ってしまう自分が悲しい。

 

学生の頃、本州最北端から上京した芋小僧が「さ⬇︎げ⬇︎⬇︎⬇︎⬇︎、ど⬇︎⬇︎⬇︎⬇︎⬇︎⬇︎⬇︎⬇︎⬇︎⬇︎⬇︎⬇︎⬇︎!(酒を飲んで東京の街を歩こう)」と高校の友人と東京を深夜に散歩していたのだが、霞ヶ関にある国民の健康や働き方に関する法律を作成している厚生労働省、深夜2時でも明るかったです。「お上がサビ残で月300時間するなら国民もね?」という精神、美しい国である。

 

 

どーでも良いですが、津軽弁は語尾どころか基本下げ。標準語の上司たちから語尾が基本下げという指摘を受けたことがあり、そーいえば津軽弁は下げだなあと日々感じている。

 

 

朝に戻ると、不幸は連鎖する。今日の朝である。妻と息子が出発し、洗濯と風呂を済ませ、さぁ出発するかという朝である。

 

 

さあ、10時までには会社にいくべと思っていたのだが、猫の餌がない!急いで猫の餌を買ってきて、餌ボックスに入れねば!そう思った矢先、猫餌の袋を開けた時である。袋が変な方向に破れ、一面に猫餌が散らばってしまうではないか!!急いでいるのに!!!!

 

 

そして焦りながらも猫餌を拾い餌ボックスに詰め、そして車に乗るべ!という瞬間である。忘れ物である。イルマ。

 

 

イルマの正体は分かる人には分かるということにして、イルマをリュックに入れてさあ行くべ!という時である。車に行って気づく。弁当がねえ!!!妻が時間がない中で作ってくれた弁当が無いのである!

 

 

ふりだしに戻って弁当を取りに行きエンジンを入れようとした瞬間である。猫の昼飯をセットしてねえ!また車から降りて猫部屋へ行き、昼飯のセットである。

 

 

こんなことをして仕事へ向かうのだが、はっきり言ってボロボロ。詳細は言えないが、酷いものである。今日は気分を変えて仕事に臨もうと思っていたのだが、胸糞が悪いことばかり起こるのである。呪われているのではないかと思うレベルである。

 

 

自分が招いたことではあるのだが、しかしどうにもこうにもうまくいかない。不幸が起きて切り替えることができないと先々で酷いことが起こると思っています。

 

 

昔に流行った自己啓発本引き寄せの法則というのがあったのを記憶しているが、嫌なことは引き寄せられると自己啓発本アンチの私ですら思ってしまう、そんな一日であった。

 

 

いや、思考が現実化するという考え方自体を否定する気などないのだが、事実として、今日おこった出来事は自分が原因だと分かっていても、感情レベルで良い気持ちではなかった。次に繋げれば良いと分かってはいるのだが、それでもである。

 

 

ネガティブをポジティブに変換するというよりも、ネガティブなことをさも存在しないが如くポジティブに溢れた人生だと思える人間が心の底から羨ましい。SNSでキラキラしている人間が雨後の筍のように溢れているが、その中には蛾が木の葉に擬態しているような者がいつつも、心のそこから楽しい事をシェアしたいと思う人も珍しくない。

 

 

有吉弘行ベッキーの事を「善意の押し売り」と評したが、「善いこと」のシェアである。これがクソうざいと思う人間が私のような人間なのであろうが、忌み嫌う人間こそ幸福だとも認識している。これが私の人生を不幸たらしめる要素だとも分かるのだが

 

 

私も押し売りしてやりたいが、そういうことではないのである。そう思った時点で蛾なのである。押し売りしているという概念が有無である。こんなことを考えて気持ちが嫌な方向に行くくらいなら文字通り葉になりたい

 

 

だからお前は何が言いたいのかと言われると、何もない。木になりたい。これである。日々感じるストレスを文字化することによってスッキリしたいのである。

 

 

大学の後輩がTwitterのことを「便所」と言って毛嫌いしていたが、まさにそれである。頭のうんこを出すために可視化しているが、うんこはうんこなので本当にどうでもよいことなのである。この頭のうんこによって病んだりするのである。そりゃあ、うんこを家の中に溜めておけば病気になるであろう。

 

 

「アイドルはうんこをしない」と言われたものであるが、善意シェア人間はうんこしないのである。だから羨ましいのである。うんこではなく善をシェアしたい。そう思う悪の組織ブラックカンパニーのショッカーなのである。