みんな今日も地獄を生きよう

妻、息子、猫3匹と暮らすブラック企業戦闘員の提供でお送りします

分業

息子は11ヶ月にして分業という概念を習得している。どういうことかというと、私が起きている時は私に甘え、寝る時は妻の隣で寝るという分業である。

 


例えば、寝ている時に腹を空かせたり、おしめを取り替えて欲しかったり、なんとなく目を覚ましてしまった際は、たとえどんなに離れていようとも、母親の所にくるのである。

 


逆に起きている時は、寝る前であっても私のところに来て甘え、母親の近くに置いてもハイハイで移動してわざわざ私の所に来て甘える始末である。

 


この原因はおそらくこうである。産まれたての頃はいつも母親の側で寝ているのに対し、私が今の会社で働く前は午前中が暇だったので起きた後はずっと遊んでいた。このことから、寝る時は母親、起きている時は父親というルーティンが完成しているのである。

 


さらに起きている時に叔母と遊ぶ機会が多かったので、叔母の事が大好きである。この人は遊ぶ人、この人は一緒に寝てくれる人という風に、息子の中で担当者が決まっているようである。

 


今日は休みなので妻が前日に作ってくれたハンバーグを食べながらネットサーフィンをしていたのだが、色々思うところがあった。

 


何かというと、依然として様々なSNSで老若男女が私生活のキラキラ、もしくはその逆の私生活に関する画像・動画をあげていることである。こういう人種は未だにおり、需要があるのかと驚いたのである。

 


(以下、長くなります。2000字はあります。酔っ払って書いているので何が言いたいか分からないかもしれませんが、感動を共有したいのです)

 


というのも、私が学生であった15年前、ちょうどTwitterFacebookが流行しはじめた頃である。この頃は自らの私生活をネットにあげてキャーキャー騒がれる人種が出てきた頃である。雨後の筍。

 


無論、その前からそのような人種が存在していたのであるが、スマートフォンの普及によってキラキラアピール(その逆も)が世俗化し、誰でもなりたい自分が手頃に演出できる時代であった。本当の自分がコンビニでコンドームを買うくらいに割と簡単に手に入るようになったのである。

 


キラキラした生活ならば、高層マンション(タワマンという言葉はこの頃あまり定着していなかったような気がする)にあるシャレおつなバーでの飲み会や、ブランド物を買ってもらったら金持ち(もしくは金持ちの知り合い)アピールといったのがどんどん可視化され、一つのコンテンツとなっていた。

 


その逆もしかりで、私の今書いている記事よりもさらに深刻なリストカットなどの自傷行為であったり、自殺をほのめかす投稿も見える化したのである(酷い場合は実際に自殺してしまったケースすら出てきた)。

 


もちろん、これらはインターネットの空間に手頃で誰もが投稿できるようになっただけであって、そういった人種は目につかないだけでいつの時代にもいた。

 


歴史の教科書や資料には特権階級の人間がわざわざ絵師を招いて自らの栄華をアピールしている訳で、彼らにスマホを持たせたら「今日は宮殿で同盟国と熱い想いを語った」とガッツポーズをした画像をどんどんあげてくれるであろう。たまに裏垢で「庶民どもの飲む酒うめーww」などと書き込んで頻繁に暴動を起こしたりしそうである。

 


悲惨な生活をしている人間は文学作品を見れば古来より変わってないようである。文学の中にも序列というか、評価されるジャンルとされないジャンルがって、喜劇は基本うけない。ギリシア悲劇は有名だが、ギリシア喜劇はあまり知られないといった具合である。日本史や世界史、国語の文学作品などを見ると分かるが、古今東西関係なく笑い話はあまりない。

 


何が言いたいのだお前はと思われるかもしれないが、キラキラアピールと悲惨な自分アピールの雛形はあまり変わってないということである。だいたいいつの時代も、いろんな場所で似たような事をやっているのである。

 


歴史や文学は長い間特権階級に独占され、印刷技術の発展によって民主化した。そして現代においてはネットが普及し、さらに誰もが発信すらできる時代になった。文化は基本的に(金を持て余して暇な)特権階級によって作られ、それが搾取された庶民に需要されて形成される。だからお偉いさんがやったことが繰り返されるわけである。

 


が、現代は違うと思っていた。コンテンツなどすぐに飽きられ、また新たなコンテンツが登場しては消費されつくされ、また別なものが生まれていくと思っていた。破壊と創造のサイクルが加速度的に速くなるので、私が学生の頃にいたキラキラもしくはその逆のメンヘラみたいなのは駆逐され、また別な何かくるのであろうと思っていた。

 


しかし蓋を開けてみると、そういった人種は石を投げると簡単に当たるし、減る気配すら見受けれらない。毎日報道されているコなんとかであってもキラキラは減らないし、転職市場の好調さや精神疾患のケアがどんどん充実し、悩みを共有できる時代になっても減る気配がない。就活顔負けの自己アピールである。

 


結局何が言いたいかというと、「私はビックリなのだー!」ということである。「こういう人たちがまだいたのか!」という驚きを言語化しているだけである。感動を伝えたいのである。

 


この驚きは衝撃なのである。なんせ、自分が学生の頃に見たような人たちがまだ市民権と発言力を得ているのである。「そんな変わってないだ!」という懐かしさすらある。歴史は本当に繰り返すのである。

 


学生の頃は「キラキラした自分をアピールして頭おかしくならないのか」と思ったものであるが、今ブラック企業で働いていると、キラキラした自分を演出できる余裕を持っている人たちが本当に羨ましいのである。

 


斜に構える学生の頃は「キラキラであったりメンヘラであったり、そういったことをアピールするのは承認欲求なんでしょw」で片付けていた。

 


もちろん、ガチでキラキラした幸せを共有したい人種もいるだろうし(幸福の押し売り)、本当に病んでいて助けを求めている人だっているであろう。しかし、こういった人たちも含めキラキラやメンヘラはただのコンテンツ、喩えるならば年金暮らしの私の母のようにNetflixや Huluで宣伝される映画を見て、面白ければ何時間も見て、つまらねえなら5分で消すといった消費対象でしかないのであろうと思っていた。商品化である。代えがきくものである。

 


けれども、代えがきくといれても、消費期限が早いと言われても、こういった人たちには依然としてパトロン(ファン)がつくし、古参もいる。アンチがいても、すぐにアンチに飽きられるほどに消費が早い時代でもである。

 


正直、私があまりお近づきにはなることないなと思われていた人種たちなのだが、考え方次第では歴史の必然であり、人類の癖ではないかと思うのである。キラキラ共有型、キラキラマウント型、メンヘラ共有型、メンヘラファッション型、キラキラメンヘラ承認型など、勝手に付けたものであるが、似たようなものはどんどん出てくるものである。善いとか悪いとかではなくである。むしろ嫉妬するレベルである。

 


こうした動向は明日生きる糧にすらなるので追っていきたいし、息子にもちゃんと教えたいと思う今日の夜であった。