みんな今日も地獄を生きよう

妻、息子、猫3匹と暮らすブラック企業戦闘員の提供でお送りします

神様日報

朝です。昨日は特に大きなストレスがなく労働しましたが、とはいえ、休日後の長時間労働はおそろしく疲れるものです。転職の面談もまだまだ先で、とりあえずは今働いているところで頑張り、決まったらささっと退職届を出したいです。息子といる時間がなくなるのはもちろんですが、自分の時間もこのブログを書いている時間も割かれるのは中々精神にくるものがあります。

 


最近、よく神社に行くのですが、何かお願い事をするというよりも、報告です。「今日も元気です」「息子と妻が健康に過ごせています」「仕事でこんなことがありました」「転職して家族との時間を作ろうと動いています」などなど、神様に日報を提出しています。

 


「神様なんとかして下さい!」というのは虫がいいというか、「お願いをしてどうなるんだ?」と思う訳です。日報を提出している私が言うのもアレなんですけど。

 


「神様は自らを助けるものを助ける」などどこかにあるフレーズを引用するわけではなく、説教するわけでも無いのですが、願いごとしても現況は変わらないと思うわけです。神様でも宇宙でも超越的な何かでもなんでも良いのですが、ちょっとスピリチュアル過ぎて「おやおや」と思ってしまいます。いや、日報出してるのもスピなんですけどね。

 


不思議なことに、自称無神論者がはびこる現代日本において、毎年多くの受験生が合格祈願をしに寺や神社に行きますし、正月には無心論者達が初詣に行きますし、何か重大な出来事があれば寺や神社に行く人が多いわけです。みんなスピリチュアル好きですよね。私も実は大好きです。

 


ちょっと脱線しそうですが、神様はお願いを聞き入れてくれるシステムではないと思うんですね。お参りや祈願をして報われる人、どれくらいいますかという話です。祈願して東大に受かるなら私も東大生です(残念ながら私は名前なんて聞いたことがないであろうアホな私文卒です)。祈願が報われるならたぶん世の中平和です。コロナやウクライナの話題はないです。むしろ出てくるとしてもコロナという会社の紹介であったり、ウクライナの文化や料理を紹介する話になっているでしょう。

 


じゃあ、お前は何で日報を神様に提出しているのかというと、提出する日報は誰にも言えないから、言えたとしてもそれを相手がどう受け止め、そこから自分がどう思うかの問題だからです。

 


「今日も健康です、ありがとうございます」「妻と息子は元気です、ありがとうございます」と思ったします。誰に何を感謝してるんだと思うかもしれませんが、自分では計り知れない存在(神様)に運が味方している事を感謝しているわけです。頭おかしいと思うかもしれませんが、家族が健康でいる可能性は高いです。

 


とはいえ、いつ予約したイタリアンのレストランへ遅刻しそうだからプリウスで100キロ飛ばして歩道に突っ込んでくるか分からないわけです。だから「今日は運が良いな」と思い、何かしたら因果で説明できないことを、支配しているかもしれない超越的なものにお礼を言っておくのです。伝わらないというか、日報の提出先の住所がないかもしれませんが、別に言い訳です。存在すら保証されていないわけですから。

 


「今の職場から抜け出して違うところに転職します」「今日はエントリーだしました」「面談しました」なども同じで、こんなことを家族や友達に言ったところでじゃないですか?「うん、頑張れ」で終わりだと思います。それはそれで満足するとは思うのですが、そういうの言ってもと思うわけです。自分の中に留めて置きたい考えや想いというのを色んな人と共有したい人なら分かるのですが、私のようなあまり人とそういったものを共有するのが好ましくない人ならば神様と共有するしか無いわけです。

 


また神様日報によって現状把握とこれから先どうするかも見えてきたりします。日報ですから何が起こりこれからどうするかを明確にしなければいけません。人事を尽くして天命を待つではないのですが、とりあえず私ができることはやりましょうのスタイルです。上手くいくかどうかは未来を見通せないのでここは神任せです。

 


もちろん、日報提出も将来うまく行くことを想定しているという点で神頼みとは変わらないのではとも思います。運命を委ねるのも超越的なものが何とかしてくれるという願望が無いのかと言えば嘘です。願っていたことが上手くいかなかったり、逆に悲惨な目に遭えば「どうして私が!」と思わないのは難しいと思います。

 


あくまでも自分がどうこれからを受け止めるかという問題でしかないです。お願いして上手くいかなかったら他責になる可能性は高いですが、報告ならば自責の方向へ向かうと思うのです。「あの人は神に愛されているのに自分は愛されていない!裏切られた!」や「お祈りが足りなかったんだ!もっと課金しなければ!」など思って生きているとそれはそれで楽でしょうが(神のせいにすれば良いだけですから)、おそらく何の進展もないような気がします。

 


報告ならば自分に降りかかる出来事に対して受け止められますし、「次頑張るか」と思えるようになると思って神社へ行っています。自己満足でしかないのかもしれないですし、そんな暇あるなら資格の勉強でもしろよと言われるかもしれませんが、気分転換もあります。10円玉を賽銭箱に入れてお祈りという名の報告をすると何となく気分が良いです。

 


神社や寺はパワースポットとよく言われますが、実際に緑もあり、中も綺麗で歩いていると何かあるのではと思うところがあります。昔よく明治神宮へいきましたが、あの広い緑の空間を歩いているとなんとなく神秘的な気持ちになれます。超越的な存在に触れ合っているみたいな。こういう神秘体験も生きる糧になると勝手に思っています。特にオチはないです。書いててちょっとヤバいと思いました。